季節は巡る魔法のように

外の空気が、夏の気配を微かに孕んでいて、窓を開けているのが気持ちがいい。

生まれた季節が大好きなのかもしれない。暑くて死んでしまいそうになる夏が。

 

東京に戻ってきて、面接を受けた。月曜日にもまた面接がある。自分のことを話すことができなくなってしまったときよりは、だいぶ自分に自信を持って人と話すことが出来るようになったと思う。うまくいくといいんだけどね。結局、大変な思いをするなら自分がやっていてやりがいを感じる仕事がしたいと思っているけど、大変すぎてまた倒れたくない気持ちもある。ライベートも仕事も幸せだって思える瞬間がある人生でありたいなと思っているし、今自分がいる業界は、多くの人に喜んでもらえる瞬間がたくさんあって、やっていてよかったなって思える瞬間もたくさんあるから、多少大変でも今頑張ってたことを続けたいと思っている。

 

ここ最近、吉本ばななさんの『キッチン』を読んだ。今まで、ずっと存在は知っていたのになぜか読んだことはなくてエッセイなのか小説なのかもわからず、読み出した。読んでいて、ハッとする表現がたくさんあった。ストーリーもとってもいい話で、読んで心の底から良かったと思ったし、これからの人生でも抱えていたい作品だと思う。特に、「そののちのこと」がとっても良かった。

私の実感していた「感受性の高さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。(途中省略)多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない」という信念を、日々苦しく切ない思いをしていることで乾燥してしまって、外部からのうるおいを求めている、そんな心を持つ人に届けたい。それだけが私のしたいことだった。

/「キッチン」吉本ばなな

 

感受性が高いことは、いい側面と悪い側面があって、わからなくていことや、感じなくていいことまで感じてしまったりすることがある。他人が感じる気持ちを、同じように想像できたり痛みを感じることができる。それのせいで、どんどん自分自身を苦しめてしまう人もいる。そのような人にとって耐え難いことが起こると、感じるすべてが自分自身を苦しめて、落ち込ませてしまう。だから、変に素直に受け止められなくなってしまっている人もときどき見かける。異様に攻撃的だったり、批判ばかりしていたり。

大切な猫を失った人に、「どんなに慰めてもらっても、ねこが存在しないことは事実で現実だから」と言われたことがある。そうだよね。『悲しみは悲しみ抜くことでしかその悲しみを癒すことは出来ない』という素敵な言葉も知っているけど、それにちゃんと向き合えるほど、心は強いのだろうか。

じゃあこうすればいいですよ、という対処法はこの世にない気がする。すべてに批判的な人も、すべてを受け止めてしまう人も、どうしても素直になれない人も、その人なりの生き方であって、私にできることは許容でその人を認めてあげることしか出来ないんだと思う。

生きていて辛い、死にたいと連絡がよく来ていたときがあった。最初は、止めていたけど、自分が死にたかったときに、自分が死にたいという気持ちを誰かに受け止めて欲しかった、ということを思い出して、もう止めなかった。そうしたことが正しかったのかわからない。その人は「死なないで、あなたが大切だよ」って言ってほしいからの【死にたい】なのかもしれなかったけど、私はこの先、何を言われてもまずは受け止めようと思ってる。人と関わっていく中で、いろんな人がいるけど、その人がそういう人になったのはこれまでの経緯や理由があったわけで、何も知らないで、その人のことを容易く批判できるのだろうかと。その場の全てで、その人を判断していいのだろうかと。

 

まずは、すべてを許容して冷静にいろんなものごとに対峙できる人になりたいって思う。心が抉れるほど辛い気持ちに襲われることがあるかもしれないけど、常に物事には両面性があって良いことと悪いことが同時に存在している。苦しいと感じることが続けば、救いがないように思ってしまうこともあるかもしれないけど、あなたが優しい気持ちを持っていて、いつでもやさしい人であれば、きっと季節は巡って気持ちの良い風が流れるんだと思います。きっと

 

屋根の色は自分で決める

過去のことは、いいことも悪いこともどんどん忘れ去ってしまう。

 

さっき、自分の背負いたいランドセルを選ぶ子どもの映像をみた。最初は両親が選んで欲しそうなランドセルで、次は自分が背負いたいランドセルを選ぶというもので、みんな自分が本当に背負いたい色のランドセルを選ぶときの顔が、すごく美しくて感動した。考えてみれば、ランドセルを選ぶことが自立への第一歩なのかもしれない。

 

私は、親の意思が強く反映される家庭で育った。小さい頃は、親が選んだものを受け入れるしかなくて、ある程度成長して自分の意思で物事を選択することができるようになった頃も、親が気に入らないと何か小言を必ず言われた。私は意思が固かったから、ふんって思っていたけど、思い返せば自分が選択したものを肯定されることが、小さい頃から本当に少なかった。自分の好きな音楽を家族がいる場面でかけることも少なくて、友だちの家の車に乗せてもらったときに、友だちが好きな音楽をかけてもらってることに驚いた。あんまり考えていなかったけど、少しづつ自分の自尊心は傷ついていたんだと思う。今でも自分が選んだものを人に見せたり、公開することが少し怖い。

 

高校生だったある朝、自由を実感した朝があった。頭ではわかっていたけど、自分ですべてのものごとを選んでいく自由や権利が私にはあって、それを否定される筋合いはないんだと、学校へ通学していく道すがら、体感した。お告げのような。本当にそうなんだと、心の底から思った。そのときは、まだ実家に住んでいたので、なんとしてでも、この家を出なくてはいけないと思った。

 

それから、一生懸命努力して実家を出ることができた。カネコアヤノの「燦々」は、上京する前としたての頃に、よく聴いた。歌詞になんども励まされたし、自分の意思や選択で生きていくと聴くたびに覚悟した。

1人で暮らすようになった頃は、自分が暮らすために選んだ全てが愛おしくて、大切に思えた。2年間は懸命に働いて、学校へ通った。生きているのが楽しかった。苦しいこともたくさんあったけど、一部の苦しみから解放された。

 

昨年、自分の夢を叶えた。でも、どうしても仕事と自分の生活を両立することができなかった。自分の生活がどんどん破綻していきながらも、仕事をすることは止められないと思ってた。自分の暮らしや自分自身よりも仕事が大切だった。でも、自分自身は暮らしの上に成り立っていて、自分自身があるから仕事があるというとに気づけなかった。

 

今、自分の暮らしを愛することはできていない。自分自身のことも肯定できないし、自分が何をしたいのか、これからどうしたいのかまだわからない。でも、自分を愛していた時期があって、自分の暮らしや自由を切望して努力して勝ち取った、未来が今であることを忘れてはいけないなとランドセルを選ぶ子どもをみて思った。これからは、自分自身のことを肯定できるようになって、自分の選択や自由を愛せるようになるためにがんばろうと思う。本当に心の底から。

見つめていたい

地元に帰ってきて、久しぶりに外出した。

最近、ストレンジャーシングスをみているので自分が住んでいる街がなんだかホーキンスみたいで面白かった。巨大な研究所ではないけど、近くには原子力発電所があって、今でも街のなかには発電所と、その発電所に反対している人たちが設置している看板がある。【〇〇は、世界で1番危険な街】と書かれてある看板が目を引いた。こちらに住んでいる家族はその看板についてなにも気に留めていないらしく、自分だけがその言葉の強さにショックを受けた。危険ではあるが、その土地で生きてきた人間がいる。話によれば、その発電所があるおかげで受けられる恩恵もあるらしく、原子力発電所があることについては家族は何も思っていなそうだった。私も地元にいた頃は、学校で原発事故が起きてしまったときの避難訓練を受けていたが、訓練の内容は、窓を閉めてカーテンを閉じて、待機だけだった。当時はなにも思わなかったし、地震や火事の訓練よりも楽でいいやぐらいに思っていたけど、事故が起きてしまったら、おわりということだ。いろんなリスクがある街ということに、離れてから気づく。今後も家族や親族はここの一帯から引っ越すことはないだろうし、私が引っ越しを進めることも、原発反対と叫ぶこともないだろう。物事にはいろんな側面があり、その側面はいいことも悪いこともある。遠くからみたら、それはおかしなことに思えるかもしれないけど、近くでみたら細かいディテールがわかってくる。新しい側面がみえてくる。

なるべくやわらかく、物事を考えたり受け取れる人間でありたいね。

私に今できることは、事故が起きないことを願うしかないのだから。

無題

これをちょっと長いTwitterだと思ってる節がある。

プライベートがなさすぎて、日常がないし仕事のことも他言ができない仕事だから仕方ないんだけどね。日常を取り戻したいので今は、少しずつ前に進み中です。

 

自分の最近知った曲が自分が生まれた頃の曲ということを知ったときに、嬉しい気持ちになるんだよね。これまでの人生、楽しいことばかりではなくて悲しいことも、それなりにあったんだけど、自分が悲しい経験をしていたときにも、こんなに素敵な音楽が存在していて、どこかで歌われてたり、流れてたりしたわけでしょ。それだけで、少し救われた気持ちになるというか。自分が悲しい気持ちになった瞬間は、世界がさいあくのすべてじゃなくて、こんなにいい曲が流れた可能性もあるって思える。

 

もっといろんな素敵な音楽を知っていきたいし、

いろんな音楽が多くの人に届いてほしいね。

 

 

 

人のきもちとして間違っている

自分がそこに存在してない、その人のパーソナルな記憶がのぞく瞬間が好き。

なんて言えばいいかな。お母さんが持ってた今まで見たことがなかったピアスとか、仲がいい友だちの家に飾ってある写真とか、学校の先生の恋人の話とか、いつも知っている人が自分の知らない場所で、見たこともない顔をして笑っているのかもしれない、というかしているんだろうなと思う瞬間。個人には、きっと大切にしたいものがあって、それがその人の目にみえる命なのかもしれないなと思った。

 

柴田聡子さんの「あなたはあなた」とか「ようこそ」「どうして」って、これの現象の歌だと勝手に解釈して聴いてる。いいよね〜

友だちの家とか行くと、これの連続なわけじゃん。胸が苦しくなっちゃうよね。あなたは私の知らないあなたがあるんですねって思う。嫉妬とかでもなくて、不思議なんだけどもっと愛おしく思えるようになる。素敵なことだよ。ここ数年、人の営みの尊さがやっとわかるようになったんだ。

 

もし私が、わたしの体から離れて、遠くから私が生きているのを見つめたとき、どんな気持ちになるのかな。これはきっと憶測でしかないんだけど、私はわたしが生きてるのをみつけた瞬間にわたしに恋をするんじゃないかと思ってる。いつか生きているわたしに偶然会ってみたい

 

 

キミはうたとひとつ

銀杏BOYZのツアーに行ってきた。

元々チケットをとっていなくて、行ける予定ではなかったが、友人がチケットを譲ってくれて行けることなった。

 

セットリストについて言及しているので注意してね。

 

 

 

 

 

 

 

全体通して素晴らしくてずっと泣いてしまった。『NO FUTUER NO CRY』は、チンくんのギターソロがほんとに好きであそこを聴くたびに、なんとも言えない興奮と高揚があって、学生時代からずっと聴いていた曲だったので、すごく楽しかった。久しぶりにオリジナルのテンポで聴いた気がする。あと、聴けて嬉しかったのは『ナイトライダー』人生ではじめて銀杏BOYZを観に行った日に、リハーサルの音漏れで聴いてめちゃくちゃいい曲だということに気づいて、そこから大好きになりはじめて行った武道館を思い出す大切な曲になった。学校に行きたくない夜、ベットで横になりながら聴いたりしていたことを思い出した。想う人はいなかったけど、曲のコード進行、メロディ共にとても好きな曲だった。歌詞もなんていえばいいのか、わからないけどきゅんとする。

 

峯田さんがMCでCDが好きな理由を話していて、自分が持っているCDは僕だけのものと言っていたのが、印象に残っている。私も17歳までサブスクに加入させてもらえなかったので、数少ないお小遣いでCDを買って聴いていた。お父さんから譲ってもらったコンポで聴く、銀杏BOYZは、それはもう特別で峯田さんがそこで歌ってくれているような音の立体感が気持ちよかった。LPやCDをサブスクに加入するようになった今でも、ずっと買い集めている。

峯田さんが言っていたように、CDやDVDは自分だけの銀杏BOYZだしそこに誰かが入り込む隙間なんてなくて、ぴったりくっついているから銀杏BOYZはもう自分でもあると思ってる(気持ち悪くてごめんなさい)

辛いことがあっても、自分の部屋の買い集めたCDやDVD、本たちは自分の味方であって、いつもそばにいてくれる存在で、励ましてくれるもので、肯定してくれて、応援してくれて、私をひとりに絶対にしなくて、私が死ぬまで瞬間まで、ずっとすべてでいてくれる。

 

高円寺のパル商店街と純情商店街を歩いたり、中野サンロードで飲めないくせに80円マックのコーヒーをしたり、PARCOにわけもなくいってベアブリックを買って並べたり、ひとりで恥ずかしいまねっこばっかりしてたけど、そこから新しい世界をたくさん知って、いろんな作品に触れるようになって、自分の世界がどんどん広がって自分の救いが増えた。

 

世界中の人に嫌われようが非難されようが、どうしようもなく音楽や本、映画が好きで、その気持ちだけがあれば生きていけるっておもう。誰にも理解されなくても。それでいいって今は思ってる。こうやって人が歌うことに感動したり、泣いたりそういう気持ちをずっと持っていたいな。

 

これからもツアーの日程がたくさん組まれているので、行く予定のある方はもうめちゃくちゃに楽しんでほしいし、銀杏BOYZのライブに行ったことがない人も今回は弾き語りで峯田さんの歌声と素晴らしい楽曲をしっくり・じっくり楽しめるようなスタイルなので、激しそうで怖いみたいな印象を持っている方はぜひ足を運んでみてほしいです。ライブの感想じゃなくて思ったことになってしまってすみません!

 

あー幸せでしたー!

誘ってくれた友人にもありがとう

ずっと大好きです

金ピカの折り紙

小さい頃、折り紙に入っている金ピカの折り紙がとても大切だったので、使わないで取っておいても自分の管理が杜撰なせいで、いっつもボロボロになっていた。

大切なものを大切にできない。

大切だっていう気持ちだけでは、カバーできない。

ほんとに全てに申し訳ないって思っているし、自分もどうすればいいのかわからないのだ。いろんなことに一つずつ向き合って、一個いっこクリアしていけば、全部完璧に大切にできるのかな。